マルコによる福音書9章38~50節
「つまずき」
この話は、弟子のヨハネが「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と報告したことから始まっています。悪霊を追い出すことができたのはイエスさまだけではありませんでした。イエスさまの弟子たちも悪霊を追い出すことができたのです。なぜなら、イエスさまが弟子たちに悪霊を追い出すことのできる権能を与えてくださったからです。しかし、先ほどのヨハネの報告によると、悪霊を追い出しているのは自分たち十二弟子以外の人で、イエスさまの名前を使っているのです。ヨハネはこの点が問題だと感じたことでしょう。
「イエスの名」、それは人間が自分の都合に合わせて使う魔法の言葉ではありません。なぜなら、イエスさまの名によって行われた御業は、イエスさまご自身が行われた御業だからです。たとえイエスさまの名前を使ったのは弟子たちであっても、その奇跡を行ったのは弟子たちではありません。イエスさまが弟子たちを通してご自身の御業を表してくださったからこそ、悪霊が追い出すことができたので す。悪霊は人間の命令など全く聞きません。しかし、神さまの御子であるイエスの命令には従わざるを得ないのです。
それを考えると、イエスさまの名を使って悪霊を追い出すことができていたこの人は、同じようにイエスさまの弟子と見なされてよい人物でしょう。イエスさまがその人物を用いて悪霊を追い出していたとも考えられます。だからイエスさまは、「その人は敵ではない。私たちの味方だ」と言われたのです。イエスさまの弟子も、イエスさまの名前を使っていた人も、そして今を生きる私たちもイエスさまの福音を信じ、宣べ伝えているところは変わらないのです。
ではヨハネはどうしてやめさせようとしたのでしょうか。まず考えられるのは、その人がヨハネの思い描く理想の弟子像に合致していなかったこと、そしてヨハネの命令に直ちに従わなかったことにあるでしょう。ヨハネはとても熱心で尊敬出来ます。しかし人の熱心は時として大きな落とし穴にその人を追いやることがあります。なぜなら、熱心な人ほど、自分と同じようなことができない人を受け入れることができず、かえって裁いたり、怒りを覚えたりすることがあるからです。自分が思い描く理想の形に当てはまらない人が許せなかったのです。この熱心さの落とし穴には、私たちもはまってしまいます。
自分の中の理想の形と違うと、たとえそれが本当に大事なものではなかったとしても、気になって気になって仕方なくなってしまうのです。自分の理想や価値観が守られることを何よりも大事にしてしまうのです。そしてそこから外れると、大きくつまずいてしまうのです。
そんな風につまずいてしまう私たちやヨハネは、まず自分ではなく、神さまがどのようなことを望まれているかを考える必要があるのです。神さまは私たち人間に、それぞれ置かれた場所で、自分たちに与えられた賜物を使って神さまの愛を伝えるようにと求めておられるのです。
私たちは隣人同士であっても互いに裁きあいます。この裁きの連鎖から私たちは自分の力で抜け出すことはできません。ここから抜け出す道はただ一つだけです。私たちを受け入れてくださったイエスの愛に私たちが気づくことです。神さまはそんな弱さを持つ私たちを愛し、大切に愛してくださいます。私たちは赦されたものとして、互いに受け入れあって歩みましょう。
主日礼拝説教 2026年3月22日
礼拝説教