マルコによる福音書 7章31~37節
「開け」
今日の聖書の個所では、ティルス地方からガリラヤ湖周辺に戻ってこられたイエスさまが、耳が聞こえず舌が回らない人を癒す奇跡物語が書かれています。聖書で耳が聞こえない人や舌が回らない人が登場すると、基本的に一人でいて、イエスさまに出会って本人が必死で癒しを願うことが多い印象ですが、この人はたくさんの人々に連れてこられ、手を置いて癒すように頼まれています。みんなから愛されていた人なのかもしれませんが、この人の状態が何かを期待させるようなものだったとも考えられます。
イザヤ書35:3~6にやがて来る救いを待ち望んでいるイスラエルの民たちへの言葉があります。その中に聞こえない人の耳が開き、口のきけなかった人が喜び歌うと書かれています。もしこの人の耳が聞こえるようになり、舌が回るようになったら、イザヤの預言がいよいよ成就するのだろう。そんな期待も人々の中にあったことでしょう。
イエスさまは耳が聞こえず舌の回らない人だけを群衆から連れ出し、「エッファタ(開け)」と言われて癒されました。しかしイエスさまは、そこにいた人たちに誰にもこのことを話してはならないと口止めされました。特に癒された人は、せっかく耳が聞こえ、舌が回るようになった、会話というコミュニケーションが取れるようになって、イエスさまに実際に癒された人として伝道していくことができるようになったのに、それを今はしてはならないと言われるのです。
イエスさまはおそらく必要以上にご自身の評判、とくに癒しに関することが広がりすぎ、本来の目的である神さまの国が近づいたので、悔い改めて福音を信じることを宣べ伝える活動に支障が出ることを懸念されたのでしょう。ほかにも癒してほしい人が多すぎて、神さまの国の話ができない、その教えについて当時の宗教的指導者たち、ファリサイ派の人々などに目を付けられて自由に活動できなくなる、そしてイエスさまの語ることについて反発する人たちに命を狙われることになる。だから今はまだ黙っておいてほしい、その時が来るまで言わないでほしい。そんなことを考えて口止めをしたのかもしれません。
しかし人々は我慢できませんでした。喜びのあまり「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」と言い広めるのです。嬉しい秘密を秘密のままで置いておけないのです。イザヤ書に預言されている救いの時が来たのだ、約束されたメシアが来て、預言されていた救いの時がついに来るのだと大いに喜びます。隠すことができない喜びを宣べ伝えたのです。
期待された癒しの奇跡から続くお祭り騒ぎですが、イエスさまはそもそも癒しの行為さえ人々に見せようとはされておられませんでした。この人だけを群衆の中から連れ出しと書かれているように、イエスさまはこの人と個別に関わられ、そしてこの人のための癒しの行為をされました。癒された人も、一人の癒しを求めるものとしてイエスさまと関わりを持ったのです。私たちも同じように、まず一人の救いを求めるものとしてイエスさまのところに集っています。そしてそんな私たちにもイエスさまは声をかけてくださっているのです。自分が呼ばれていることを知って、従って行くという生き方が求められていることが分かります。そこでこそイエスさまと出会い、救いを授かるのです。いつの間にか、自分の世界に閉じこもり、聞くべきことを聞かず言うべきことを言わない私たちに、自らを開きなさいとイエスさまは命じてくださっているのです。
