主日礼拝説教 2025年11月30日

イザヤ書51章4~11節
「わたしに聞け」

 アドベントが始まりました。イエスさまの誕生を祝い、また再臨を待ち望む時としたいと思います。
 私たちはよそ見をしてしまった結果、目的地はどこで、どのようにすればいいのかを忘れてしまうことがよくあります。人生に明確な目的地、ゴールがあるのかというと答えは出せませんが、私たちには明確な大きな希望が与えられています。神さまが旧約の預言者たちが語った通りにイエスさまをこの世に遣わしてくださった。そのイエスさまが天に帰られる際に、もう一度来られると約束してくださった。私たちはこの再臨の約束が叶う日が来る希望を、目をそらさずにまっすぐ見つめて歩む必要があるのです。
 今日の聖書の個所では、預言者イザヤが喜びの言葉を、神さまの正義、神さまの救い、神さまの恵みは必ずイスラエルの民にもたらされるのだと語っています。具体的には、バビロン捕囚という外国への強制的な移住の時代が終わり、エルサレムへ帰ることができるのだと語るのですが、よく見ると、聞く人を元気づけようとする言葉、勇気を奮い起こそうとする言葉が連ねられて語られていることが分か ります。半世紀ぶりに故郷に帰ることができるという喜びの知らせの前に、どうしてイザヤは繰り返しイスラエルの民たちを鼓舞する言葉を語ったのでしょうか。
 その大きな理由の一つは、すでにエルサレムなどは神殿も含め、他民族によって徹底的に破壊されていることを知っていたからです。たとえ強制的にであったとしても、彼らはそこで50年ほど住んでいました。そこには新しい生活基盤があります。その生活をすべて捨てて、エルサレムの町を作り直すことを考えれば、バビロンで生活していた方がまだいいのではないかと考えてしまったのでしょう。
だからこそイザヤは、かつてイスラエルが神さまの御業によってどのように救われたのかを思い起こすようにと語ります。出エジプトの出来事を思い起こしなさい。神さまが共におられるではないかと力強く語るのです。そしてその神さまの御言葉を聞きなさいとイザヤは言うのです。
 人間が思いつくことどころか、想像すらできない、気が付かない所に、とんでもないという方法で、神さまは道を開かれるのです。いったい誰が神さまの独り子であるイエスさまが、ナザレという田舎の大工の息子として、人間であるマリアから生まれ、人々の間に生き、最後には十字架で亡くなられるなど想像したでしょうか。誰が十字架で亡くなったイエスさまが三日後に復活して、全ての人の罪をお赦しになられるなど考えたでしょうか。しかしそこから神さまは、実に私たちの救いの道を、開かれたのです。神さまの声を聞き、目をそらさず信じていた人たちに救いを与えられたのです。
 私たちには既にイエスさまの誕生という形で、約束されたメシアが与えられたことを、聖書を通して知っています。そして、そのイエスさまが天に帰られる際にされた約束、再びこの世に来られる時が来ることも知っています。しかし、一体その日がいつなのかは分かりません。ただ待ち望んでいる状態です。不安な思いも当然します。それでも聖書は聞きない、見なさい、待ち望みなさいと語ります。旧約の預言者が語った通り、イエスさまは来られた。そのイエスさまが再臨の約束をされた。その日は必ず来る。私たちはそんな希望をもって歩んでいます。ただ待ち望むことは難しいです。しかし、それでも信仰をもって、祈りをもって約束が成就することを信じて歩んでいきましょう。

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