主日礼拝説教 2025年10月19日

マルコによる福音書5章1~20節
「一緒に行きたい」
 悪霊の働きというと、ある特定の人の人格を破壊するということが注目されます。しかし、それは一つの見せしめによって、周りの人すべてを萎縮させる悪霊の罠とも言えるでしょう。誰かが徹底的に悪霊に苦しめられているのを見ると、多くの人はその人から離れていきます。自分が同じようにならないためです。まさに「触らぬ神にたたりなし」です。それによって、たとえ見たくなくても見なくてはならないものから目を閉じて滅びに向かいます。悪霊なら見なくてもいいのかもしれませんが、目や耳を閉じさせて、本当に見たり聞いたりするべき神さまの導きをも聞かないようになってしまうのです。
 悪霊に取りつかれた人がゲラサ人の地方にいました。そのレギオンという悪霊は、イエスさまを見るとすぐに走り寄って来て、自分たちをこの地方から追い出さないようにとしきりに願います。そして豚たちに乗り移らせてくれと頼みました。イエスさまがそれを許すと、悪霊に取りつかれた人は癒され、2,000匹もの豚たちは、湖になだれ込んでしまいました。この出来事を見たその土地の人は恐怖します。 悪霊に取りつかれた人の救いよりも、豚を失ったことの方に目が向いたのでしょうか。それとも彼らは、悪霊すらも恐れて命令を聞くイエスさまを、悪霊の親分と見たのでしょうか。ゲラサの人々はイエスさまにその地方から出て行ってもらいたいと言い出すのです。ここに、悪霊の狙いがあったのかもしれません。
 悪霊は今も人を悲惨に陥れ、滅びに追いやる力を持って動いています。それが人間の力ではどうしようもない恐ろしい存在であることは確かでしょう。しかし、私たちはそんな悪霊をはるかに超える力を持っておられる方、イエス・キリストを知っています。私たちは弱いですが、そんな弱い私たちでも、イエスさまの御名によって、悪霊の力に打ち勝つことができます。
悪霊のひそかな働きを理解することは大切ですが、それにおびえる必要は全くありません。大切なのはイエスさまに目を向けることです。
 私たちの心の中には、見たくない・聞きたくないものがあります。そしてただ漠然とそれらを恐れ、触れないように努力します。臭い物に蓋をする生き方が間違っているとは言えませんが、その蓋を取ってしまうぞと悪霊が脅したとき、私たちはその悪霊に屈してしまう可能性が高いのです。その時見せかけの平安があっという間に崩れてしまいます。
 イエスさまは見せかけの平和を壊しました。それは同時に劇薬でした。真実を知ることは、ある意味では怖いことです。しかしその恐怖を乗り越えた時、たとえどんな結果であったとしても、私たちには希望がもたらされます。
 癒された人は、一緒に行きたいと願いました。しかしそれは許されませんでした。そのかわりに神さまの福音を異教の地デカポリスで宣べ伝えることを命じられます。一緒に行きたいという自分の願いが良しとされなかった事実をしっかりと受け止め、自分ができる最善、イエスさまの言葉にしたがって生きる道を選んだのです。悪霊に取りつかれ、そこから癒された人でなければできない働きを行ったのです。
 悪霊は一度支配下に置いた弱い人間の行う宣教がどれほど大きな力を持っているのか軽視していたのでしょう。悪霊の作戦は、弱い人間の証しによって失敗に終わるのです。悪霊の力は人間の想像を超えた力で無力化されます。たとえ私たちが弱くても、神さまが大切に守り、用いてくださるからです。この喜びをもって私たちは歩みゆきましょう。

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