主日礼拝説教 2025年10月12日

マルコによる福音書4章35~41節
「眠るイエス」
 今日の聖書にはイエスさまが嵐の中で眠っておられたことが書かれています。そんなイエスさまを弟子たちは、必死で起こします。弟子たちの必死な問いは私たちにもよく分かります。私たちの生活には、いつでも嵐が、危機があります。それは昔も今も変わることはありません。いろんな嵐が起こりますし、同じく何か不思議な形で嵐が静まる経験もします。その静まり方も、期待通りでないことことが多いです。そんな時、私たち人間はパニックになり本性を表します。嵐が起こったり静まったりするたびに、その人が何を怖がっているか、あるいは何を信じているのか、あるいは何を信じていないのか、そういう意味での弱さとか、不信仰とか、あるいはその人の罪深さとか、そういったものが全部あらわにされるのです。
 小さなことかもしれませんが、かつて全国のスーパーからトイレットペーパーが買い占められたことがありました。最近でも、使い捨てマスクやお米で似たようなことが起こりました。必死で買い集めていたのは基本的に普通の人です。そんな普通の人が、日用品がなくなるかもしれないとい う嵐にあって、後先考えずに歴史の教科書に載るようなことをしてしまったわけです。自分の生活、資産、名誉などが危機にさらされることによって、自分がどんなにそれに捕らえられていたか、何を恐れているかがあらわにされます。そしてイエスさまを叩き起こし、どうして自分たちが危機的状況なのに寝ているのですかと文句を言うのです。
 私たちの生活にある嵐の根本は怖いという感情でしょう。イエスさまは、「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか」と言われました。私たちには信仰がないために、つまりまだ完全に神さまを信じきっていないから嵐を怖がるのです。
 本性が出るとか、不信仰によって暴露される人間の本当の姿というと、ポジティブな言葉には聞こえませんが、必ず悪いことばかりではないとも言えます。この出来事を通し、自分の弱さを自覚できるのです。私たちは、大小たくさんの嵐にあいます。そんな時、私たちはまず祈りaます。神さまを信じているからこそ、祈るのです。例え不信仰でも、イエスさまは願いを聞いてくださるのです。だから私たちは「一体この方はどなたなのだろう」という疑問の前に立たされるのです。
 舟の上で弟子たちは嵐を恐れました。そして嵐の中で眠っておられるイエスさまを起こそうとします。聖書を読み進めていくと、眠っている側と起こす側が入れ替わる時が来ます。それはゲツセマネの祈りの時です。イエスさまはどうか十字架にかかることを避けることはできないでしょうかと血が滴るように汗を流しながら祈りました。イエスさまが一生懸命祈られているとき、目を覚ましていなさいと頼まれた弟子たちはどうしていたのか。そう、眠っていたのです。夜のガリラヤ湖の嵐を恐れ、自分たちがおぼれてしまってもいいのですかとイエスさまに問いかかる弟子たちと、恐れずに眠っていたイエスさま。目の前の十字架、神さまの裁きを恐れ、やがて十字架上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ぶイエスさまと、恐れずに眠っていた3人の弟子たち。イエスさまは恐れる対象を間違えた弟子たちの、私たちのために十字架に架けられたのです。
 復活したイエスさまは、メシアとして私たちの中に今もおられます。そして嵐にあうと起きてくれと叫ぶ私たちの祈りを聞いてくださいます。この愛と恵みとを心に留め、目を覚まして歩んでいきましょう。

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