主日礼拝説教 創立記念礼拝 2025年9月7日

創世記1:31~2:3、箴言29:18a、マタイによる福音書12:1~8

「休止符」と「幻(ビジョン)」

               吉川 清和 牧師

 日曜日に神様を礼拝することは主イエスを救い主として信じる新しいイスラエルの民であるクリスチャンの集まりから始まりました。それまで、イスラエルの民は土曜日に礼拝を守っていました。それはモーセの十戒で「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と命じられていたからです。ここでの「安息日」とは週の最後の日(土曜日)のことです。では、なぜ週の最後の日が「安息日」となったのでしょう。それは、天地をお造りになった神様が第七の日に休まれたことに由来します(創世記2章)。でも、なぜ神様は第七の日に休まれたのでしょうか。それは、創世記1章31節に「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。・・・」と記されている通り、神様はこの世界や私たち人間を「良いもの」として造られました。そのことを受けて「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、・・・神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(創世記2章1~3節)のでした。要するに、神はお造りになったこの世界と人間とをご覧になって第七の日を「喜び、祝福する時となさった」のです。その上でさらに私たち人間にも、第七の日を「神様の恵みのみ業を見つめ、感謝し喜ぶ日」として定められたのが「安息日を覚えてこれを聖とせよ」との戒めがもつ意味です。

 その意味するところは、次のように譬えることが出来るでしょう。すなわち、歌や音楽には必ず「休止符」があります。そこに来ると、歌や演奏はいったん休みます。そして、その何拍かの休みがあることが歌や楽曲全体を完成させる大切な要素なのです。休止符が無く、音がひたすら連続している楽譜が生み出す結果は、歌い手や演奏者を疲れさせるだけでなく、聞き手に感動を与えることも無いでしょう。曲の中にあって「音を出さない」ことが「音を出す」ことと組み合わされることによって全体がひきしまり、感動を与えるものになるのです。

 私たちの生活もそれと同じです。「休止符」を持たない生き方、即ち、この世のことや自分のことばかりに目が向き、それ以外を見ようとしない生き方は、疲れとストレスが積み重さなり活き活きとした生活を産みません。そうならないための「人生の休止符」、それが日曜日に礼拝を守る生き方です。神様がその独り子であるイエス・キリストによって私たちに神の愛に与る者としてくださった神様に思いを致し、御言葉の説き明かしを通して与えて下さる神のみ霊をしっかりと吸い込む「人生の休止符」として礼拝を大切にしたいものです。

 ただし、そのためにはいったんこの世の業を離れなければなりません。けれども、残念ながら罪ある私たちはそのことへの弱さをもっており、なかなかこの世のことから手が離れません。だからこそ、神様はモーセの十戒によって安息日を覚えてこれを聖としなさいとの戒めを与えられたのでした。イスラエルの民は彼らの歩みの中で、安息日を守る努力を続けてきたのです。以下の話しは、そんな彼らの安息日の守り方の努力を前提にしたイエス様とのやりとりです。

 マタイ福音書12章には、イエス様がファリサイ派の人々から「安息日をきちんと守っていない」と責められたと書かれています。それは、安息日にイエス様の弟子たちが麦畑に実っている麦を摘んで食べたためでした。ファリサイ派の人たちの理解では、麦の穂を摘むことは刈入れという仕事であり、もみ殻を剥いで中の実を食べることは脱穀という仕事に該当し、いずれもファリサイ派の人たちが主張する安息日違反の行為でした。

 しかし、先にも触れましたように、安息日とは「神様のみ業、恵みを喜び感謝するために設けられた」のであって、働かないことが本来の目的ではありません。ところがファリサイ派は、安息日を「仕事をしてはいけない日」、「形だけの日」にしてしまっていたのです。この聖書箇所はその的外れを指摘し、安息日の本来の目的を教えようとしているのです。それは、神様が創造された人間の本来の姿、言い換えれば神の形に似せて造られた姿を取り戻すために神の御子であるイエス・キリストを遣わしてくださった神の恵みに感謝し、御言葉の説き明かしと聖餐の恵みを通して信仰を励ましてくださろうとする聖霊を深く呼吸するためです。私たちは、神様によって与えられた人生を意味あるものとするための休止符としての安息日を大切にしたいと思います、

 安息日について更にもう一つ。私たちキリスト者は、なぜ旧約の民と違って「土曜日」ではなく「日曜日」に礼拝を守るのでしょうか。それは、十字架で死なれ、墓に埋葬されたイエス様が復活されたのが週の初めの日(日曜日)だったからです。「イエス・キリストの十字架」の持つ意味は、本来、罪の故に神の裁きを受ける立場にある私たちの身代わりとなり、「神から見捨てられ呪われた者として」死んで下さったことにあります。その出来事の故に、私たち罪びとに「罪の赦し」が与えられたのでした。しかし、イエス・キリストの「罪の赦し」がどのような恵みをもたらしたのかが分からなければ、私たちは罪の赦しを心から喜ぶことが出来ません。そこで、そのことがはっきりとした形で示された出来事、それがイエス・キリストの復活なのです。キリストの復活は神様が私たちに与えようとしておられる「永遠の命」の先駆けであり、そこにこそ神様の救いの目的があります。それがはっきりと示された出来事であるが故に、キリスト教会は主イエスが復活された日曜日を喜びの礼拝として守り、イエスを通して与えられた救いの恵みを再確認し、また聖霊による慰めと励ましである御言葉の説き明かしを聞き、聖餐に与って一週間の生活の場へと出かけて行くのです。

 最後に、箴言29章18節前半に「幻がなければ、民は堕落する」とのみ言葉について。「幻」とは「ビジョン(展望、未来像)」のことです。では、「神の民のビジョン」とは何でしょうか。それはマタイ福音書28章19~20節に記されているように「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」ということです。私たちの教会は、今から55年前の千里での万博の時に、キリスト教パビリオンを出展するための拠点として働きました。しかし、その役割は万博が終わると共に終えてしまいました。ところが、時間の経過によって終わることのない役割が千里山キリスト教会には与えられています。それは「あらゆる国の人々を弟子としなさい」とのキリストの宣教使命です。その宣教命令を千里山の地で果たすための拠点として選ばれた出来事、それが77年前の千里山キリスト教会創立の持っている意義です。そして、イエス様から託された福音宣教の働きは77年前も、2025年の今も、これから先も変わることはありません。私たちは「幻なき民は滅びる」との聖書の言葉に真剣に耳を傾け、キリストの宣教命令を具体化するための歩みをしっかりと続けて行きたいのです。

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