主日礼拝説教 2025年8月3日

マルコによる福音書 2章13~17節
「医者を必要とするのは」

 イエスさまは福音書の様々な箇所で、誰かと食事をされています。今日の聖書の個所でも、徴税人や罪人と一緒に食事をしたことで、反発されていました。当時、共に食事をするということは、その人と同じ考えや価値観を抱いていること、仲間であることを意味しました。ですので厳格に律法やその解釈を守り正しい人、救われる人となろうとするファリサイ派の人にとっては信じられないことです。律法を守ろうとすることはとても大事なのですが、同時に彼らは決まりを守れない人たちを、社会的に排除しようとしていました。当時は売国奴扱いされていた徴税人を弟子にして、仲間として共に食事をする。ファリサイ派の人たちにとって、これはもはや異常事態です。彼らはおそらくイエスさまと口を利きたくもなかったでしょう。「どうして彼は、徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と、イエスさまご本人ではなく弟子たちに問い詰めています。自分たちは正しい人、徴税人は悪い人、イエスさまやそれに従うあなたたちは一体どちら側の人間なのかとファリサイ派の人々は真剣に問うです。
 ファリサイ派は律法などを基準と していましたが、現代の日本であればどうでしょうか。律法のように明文化されたものはありませんが、やはり正しい人とそうでない人に分断する何かがあります。山本書店の創業者山本七平は、それが空気だと言いました。空気が日本人や日本社会に大きな影響をもたらし、それが絶対的な支配力を持つ判断基準になっていると彼はその著書で語ります。
 しかも空気は、律法のように定まった文字ではありません。時代や状況によってどんどん変化します。そのため、非常に分かりづらいですが、日本で暮らしていると、この空気を読むことは必須のものとして学ばされることになります。そして、空気を読まなかったり、それに抵抗したりするときには異端者とされ、社会的に排除されることもあります。もちろん、律法と空気は全く違うものであり、そのまま置き換えられるわけではありませんが、正しい人であろうと努力した結果、そうでない人を排除し、悪い人としてしまう部分はよく似ています。分断の道具として使われてしまうのです。
しかしイエスさまはそのように弱くされ、悪い人と見なされた人たちと共に食事をされます。共に食事をし、その人たちの友となったのは、繋がりを断たれ、安心できる場所を奪われ、助けを得られる関係も失い、社会の中の底辺とされてしまった人たちでした。彼らこそ医者を必要としていた人たちだったのです。
 神さまが弱くされた人たち、追いやられた人たちをひと時も忘れておらず、今も変わらず愛しており、大切に守られていることをイエスさまは知らせてくださいます。神さまは人を正しい人と悪い人に分けません。いつでも、どのような人でも愛し、神さまとつながり、向き合って生きることを、神さまは望んでおられるのです。イエスさまは弱くされた人や悪い人と言われた人のもとに行かれ、食事をされました。イエスさまは自分が正しい人と評価される為ではなく、すべての人たちを救うために、この世に来られたからです。
 医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。この言葉はファリサイ派の人たちだけでなく、そこにいたすべての人の心に強く刺さったことでしょう。神さまから見れば本当に正しい人は、本当に罪のない人はいません。しかしその罪人を招くために、私たちのためにイエスさまがきてくださったのです。この喜びをしっかりと心に留め、感謝をもって歩んでいきましょう。

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