マルコによる福音書 1章21~34節
「悪霊を追い出す」
古代の人々は人間の力を超えた、目に見えない大きな力を感じた時に、それを「霊」と呼びました。その力が神さまから来るものであれば聖霊、悪い力であれば汚れた霊=悪霊と呼びました。その伝統は新約の時代でも変わらず、重要視されています。そして医学などが未開拓分野であったこともあり、人々はこの悪霊が人を病気にすると考えていました。そこからの癒しがこんなにも書かれているということは、福音書記者たちは、イエスさまの活動の中心の一つは病の癒しや悪霊追放だったと伝えているわけです。
ある安息日、イエスさまがカファルナウムの会堂で福音を宣べ伝えていた時、悪霊に取りつかれた男がイエスさまに「かまわないでくれ」と語りかけました。普通の律法学者であればこの男のことは無視したでしょう。何か悪いことをして、神さまからの呪いを受けて精神を病んでいると理解したからです。しかし、イエスさまは「黙れ。この人から出て行け」とお叱りなりました。すると悪霊はその人から出ていきます。神さまとの関係を拒否しているのは、目の前にいるその人ではなく、その人の中にいる悪霊だとすれば、その悪霊を自由にさせておくわけにはいかないのです。イエスさまが悪霊を追い出されることによって、その人は正常な人との交わりを取り戻し、神さまとのつながりを取り戻しました。イエスさまの最初の宣教の業は悪霊追放であり、神さまとのつながりを取り戻すということだったのです。悪霊追放はイエスさまにとって主要な宣教課題だったのです。イエスさまが取り組まれたことは、社会から排除され、除外されている人々を救うことでした。神さまから私たち人間を引き離そうとする力が悪霊の働きと捉えれば、それはまさに現代の教会が取り組むべき宣教課題になってきます。
悪霊は私たちの周りにもあります。現代も、神さまと人、人と人との関係を引き裂いていく、目に見えない大きな力が働いていると感じることはないでしょうか。人と人とが支え合って生きるよりも、一人一人の人間が孤立し、競争に駆り立てられ、ストレスが人に襲いかかり、それが最終的に暴力となって爆発して自分や他人を襲ってしまう。これこそまさに悪霊の働きです。そしてその人々を、悪霊につかれたと排除するだけでは、聖書に出てくる律法学者と同じです。犯罪の背景には、社会の罪もあります。合理性を突き詰め、人間を機械のように使い、病んでしまえば使えないと切り捨ててしまう。すべてを自己責任という言葉で片づけてしまわれる恐怖があります。そのような、一人の人間ではどうすることもできないような得体の知れない恐怖や力こそ、現代の悪霊でしょう。しかし私たちはそのような悪霊の力をいともたやすく打ち破る神さまの愛があることを、聖書を通して知っています。神さまが人間から壊してしまった関係性を回復されるために、私たちの罪の赦しのためにイエスさまを送ってくださったことを知っています。そしてこの福音を宣べ伝えるために神さまが私たちをその器として用いてくださっていることも知っているのです。
「神の国は近づいた」というメッセージを持ってイエスはその業を始められました。イエスさまは悪霊に苦しめられ、神さまや人との交わりを喪失していた人を、交わりに連れ戻すことに全力を尽くされました。イエスさまは排除された人、神さまや人との関係を引き裂かれてしまったかのような人に宣教をしました。この喜びを私たちもまた、感謝をもって、神さまの招きを共有・確認し、宣教の業を行っていきましょう。

