主日礼拝説教 2025年6月29日

マルコによる福音書 1章16~20節
「ついて来なさい」
 イエスさまはその伝道活動を、イスラエルの北部に位置するガリラヤから始められました。ガリラヤはエルサレムの町から比べると北にある田舎でした。イエスさまが逮捕されたときに大祭司の庭で隠れてその様子をのぞいていたペトロがそこに居合わせた人びとに「お前もイエスの仲間ではないか、ガリラヤの者だから」と言われる個所があります。どうしてペトロの出身がすぐに分かってしまったかと言えば、彼がガリラヤ方言、ガリラヤ訛りで語る人だったからです。このようにペトロたちは、訛りの強い田舎者たちとエルサレムの人びとから考えられていたことが分かります。そんな田舎にある湖のほとりで、イエスさまは弟子たちを招きました。このイエスさまのこの招きに答えること、悔い改めて福音を信じるということとはどういうことなのかを最初の弟子との出会いは教えています。
 まずイエスさまはシモンとアンデレの兄弟が湖で網を打って漁をしているのをご覧になられます。同じようにイエスさまはヤコブとヨハネの兄弟が舟の中で網の手入れをしているのをご覧になり、声を掛けられていま す。そして「わたしについて来なさい」と呼びかけられています。「ついて来なさい」は、「共に歩もう」という意味があります。4人の弟子たちは、イエスさまと共に歩む道を選んで、網を捨てたり、父や雇い人や舟を残したりして従っていくのです。これも一つの奇跡物語でしょう。
 しかし全てを捨てないといけないのかと疑問が浮かびます。マルコによる福音書の全体から彼らの行動を見てみると、彼らもすぐにイエスさまに従ってはいますが、全てを捨てているわけでもないだろうということが分かります。例えばイエスさまが「私は十字架にかけられて死ぬ」と言われると、慌ててペトロはイエスさまをわきへ連れていさめています。「そんなことになったらすべてを捨てた自分たちの生活がどうなるのか考えてください。」とペトロは思ったことでしょう。またペトロが「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言い、「私たちは何をいただけるのでしょうか」と聞いている場面もあります。最初はイエスさまに従うことが、漁師を続けるよりも得だから従っただけとも取れます。ですから彼らはイエスさまが捕らえられ裁判にかけられることになった時、そこから逃げ去りました。彼らが悔い改め、信仰を新たにされるのは、復活のイエスさまに出会ってからです。
 最初の弟子たちは、自分にとって大切であったものを捨てたり、そこに置き去りにしたりしていますが、それはイエスさまの弟子になる条件ではありません。イエスさまはそれを彼らに求めてはいないからです。重要なのはイエスさまの招きの素晴らしさです。彼らは普通の漁師でした。その彼らをイエスさまがご覧になられ、自分に従って来るようにとお呼びになったとき、彼らはすぐにイエスさまの弟子となる決心をすることができたのです。それは彼らの努力の結果ではなく、イエスさまのみ業の結果なのです。イエスさまの言葉は力あるものであり、私たちの心を一瞬の内に変え、従う者としてくださることができるのだと聖書は語るのです。
 イエスさまに従うとは全てを捨てることだけではありません。むしろこれまでの人生で蓄積してきたものを主のために生かす人生に変えられることが求められているのです。そして自分一人の平安を求めるに留まるのではなく、それぞれが持つものをフルに活かして「人間をとる漁師」として歩むことが求められているのです。

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