聖書を読むための旧新約聖書のポイント 3/3
講師:吉川清和牧師
「神の子となる資格」
ポイント⑮ 民族主義的、律法主義的信仰に陥り、「神の民」としての存在意義(「祭司の王国」「聖なる国民」)を失くしてしまった旧約時代のイスラエルに替え、神様は新たな「神の民」を起こすことで、かつて神様がアブラハムに約束された祝福(諸国民が神の祝福に与る)を実現してくださる時が到来しました。それが、神の御子である主イエス・キリストの誕生です。
ポイント⑯ 罪の無い「神の御子」が罪の支配するこの世に来てくださったことのもつ意味は・・・。
- 罪に対して下される神の裁きをご自身に引き受けことで罪びとに「完全な赦しが与えられる」ため
- 罪の贖いのためのために必要な「完全な犠牲となる」ため
- 罪の無い大祭司として、神様と罪びととの間を「完全に執り成す」ため
ヨハネの手紙(第1)4章9節は「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」と記しています。主イエス・キリストの誕生と十字架の死の意味は、まさにこのみ言葉の中に示されています
ポイント⑰ 上記の使命を果たすために十字架に掛かり死なれ、そして墓に葬られた主イエス・キリストを父なる神様は甦らされました。主イエス・キリストの復活の出来事は、私たちが恐れて止まない「死」が絶対的な力をもつものではないことを示しています。このキリストの復活の出来事は、ルターの言葉を借りるならば「死が死んだ」ということを意味しています(コリントの信徒への手紙(1) 15章55節)。そして、イエス・キリストの復活は、私たちイエス・キリストを信じる者にも及ぶのです。そのことを告げている聖句を見ておきましょう。
「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には『神の子』となる資格を与えた」(ヨハによる福音書1章12節)。
「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(コリントの信徒への手紙(1) 15章20節)。
これらのみ言葉が告げるのは、主イエスを信じる者を神様は「神の子」として見做してくださり、主イエス様の復活は、やがて「神の子」である私たちに与えられる永遠の命の「初穂」なのだということです。ここに、神様が救いの歴史の中で示して下っていた救いの姿がはっきりとした形で与えられたのでした。
ポイント⑱ このように主イエス・キリストを信じる者に与えられている祝福の大きさに驚かされる反面、洗礼を受けた後にもなお自分の中にある罪に悩まされ続けている姿があることも事実です。「果たして、それで自分はクリスチャンと言えるのか。自分は偽善者ではないのか?」と・・・。実はパウロもそのことで悩んでいました。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」(ローマの信徒への手紙7章18節)。この問題について、私たちは自分の目線で自分を見てはいけません。自分に対して良心的であろうとすることは大切なことですが、しかし、キリスト者の目線は、「神様が私をどのように見てくださっているか」ということにあります。悪魔はあらゆる手段を用いて私たちを神様から引き離そうとします。良心的であろうとすること結構ですが、こと「信仰」に関しては、人間の良心は容易に悪魔の手段になってしまうことを知っていなければなりません。私たちがキリスト者とされたのも、またキリスト者であり続けられるのも、「私が良心的な人間である」からではなく、「イエス・キリストを信じる者である」から、神様は罪のあるこの私を義と認めて「神の子」として取り扱ってくださるのです。ルターはそのような私たちの姿を「罪びとにして、同時に義人」と言いました。このことは「信仰義認」とも称されます。
ポイント⑲ イエス・キリストの復活の出来事があってから50日目、エルサレムにいたイエスの弟子たちが集まっていた時、聖霊が降り彼らが諸々の言葉でしゃべりだす出来事が起こりました。これは弟子たちが「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」 (使徒言行録1章6節)と訊ねたことに対する神様からの応答です。すなわち、「神の民」として選ばれた旧約のイスラエルの民が託された使命を果たすことが出来なかったことに替えて、神様がその使命を託すべく「新たな神の民」を起こされた出来事、それが聖霊降臨です。キリストの教会とはこの「新たに起こされた神の民」のことです。人は「洗礼を受ける」ことで教会の一員となります。また、神の民には「聖餐」の恵みが与えられます。すなわち、パンと葡萄酒という見える形で神様の恵みに与り、信仰の養いと励ましをいただいて、キリスト者を神様から離れさせようとする悪魔との戦いを続けつつ、キリスト再臨(神の救いの完成)の時までその歩みを続けていくのです。再臨までは福音が全世界に宣べ伝えられるための「宣教の時」です。

