テサロニケの信徒への手紙二1章1~12節
「キリストの来臨」
テサロニケの信徒への手紙一の後半には、やがて来る主の日に混乱している兄弟たちに、心配することなく目を覚まして歩むよう勧告の言葉が書かれていました。それでも動揺して分別をなくし、慌てふためく兄弟たちがいたことが第二の手紙には書かれています。そのような者たちに、落ち着いて仕事をするようにとパウロは語っています。
教会の内側も混乱の中にありましたが、教会自体も使徒言行録などにありますように迫害を受けていました。そんな苦難の時代の中、テサロニケの信徒たちは忍耐と信仰によって、イエスさまの恵みにとどまり続けたのです。これについてパウロは、「神の諸教会の間で誇りに思っています」と言っています。そして彼らが、苦難の中で忍耐し、信仰にとどまっていることは、彼らに福音を宣べ伝えたパウロが使徒であることの拠り所であったのです。もちろん、パウロは自分の手柄として、テサロニケの教会のことを誇っているのではありません。テサロニケの信徒たちが、あらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることは、「あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠」であるとパウロは語ります。
テサロニケの教会の人たちには、イエスさまに従うことを止め、信仰を捨ててしまって目の前の困難から逃げ出すこともできたはずです。しかしそれでも彼らは苦しみの中でイエスさまに従い続ける道を選びました。パウロを通して語られた福音を、イエスさまの十字架と復活による希望を信じていたからです。イエスさまも十字架の死の苦しみを通して、栄光の御国へと入られました。そのイエスさまに従う一人として、キリスト者は多くの苦しみを経て、神さまの国へと入るのです。これはテサロニケの教会の人たちも、私たちも変わりません。
パウロは、テサロニケの教会の人たちが神の国にふさわしい者であることが、今分かると語ります。テサロニケの信徒たちが受けている苦しみ、それはイエスさまのための苦しみであり、神の国のための苦しみであるからです。イエスさまは山上の説教で、「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」と言われましたが、まさにこの通りです。この幸いに、パウロやテサロニケの信徒たちだけでなく、私たちもあずかっているのです。私たちもこの世にある、神さまから私たちを引き離そうとする誘惑と戦いながら日々を過ごします。時には負けそうになりながらも、忍耐によって、そして何よりイエスさまにすべてを委ねる信仰で打ち勝っています。
神さまはすべての人が御自分を認めて、イエスさまの福音に従うことを望んでおられます。これを私たちはいつも覚える必要があります。神さまは全ての人々が救われて真理を知ることを望まれたのです。神さまは、イエスさまにおいて、御自分の愛をお示しくださり、イエスさまの十字架と復活を信じる者たちに、永遠の命を与えてくださいます。このイエスさまの福音を宣べ伝え、キリストの来臨を心から待ち望むことができるようになるために、神さまは今朝も、私たちをキリストの教会として、呼び集めてくださったのです。私たちは、神さまの望みを私たちの望みとさせていただき、折が良くても悪くても、イエスさまの福音を宣べ伝えていきましょう。
