主日礼拝説教 4月27日

テサロニケの信徒への手紙一 5章12~28節

「パウロの願い」

 テサロニケの信徒への手紙一の結びでパウロは、勧告と祈りの言葉をつづります。とても愛のこもった重要な言葉がたくさん書かれていますが、やはり目を引くのは16節から18節の言葉ではないでしょうか。はっきりと私たちに対する神さまの望みが記されています。しかしこれら三つの勧告の言葉は重要ですが、実際に生活していく中で実行することは非常に難しいように感じます。

 まず喜びなさいという命令は違和感を覚えないでしょうか。なぜなら喜ぶことは、基本的に他人から命令されたり強要されたりするものではないように感じるからです。では私たちはどんな時に喜ぶのでしょうか。例えば自分に良いことが起こった時、私たちは喜びます。しかし、もっと日常的に私たちが経験する喜びは、他の人と心を通わせることではないでしょうか。自分以外の人と、心を開いて色々なことを語り合う。また、自分以外の人の言葉や振る舞いを通して、自分が大切にされていることを知る。もっと単純に、挨拶をしたら挨拶を返してくれた時。そのような時にこそ、私たちは心静かな喜びに包まれると思うのです。喜びは他者の人格と触れあうといった心の充足にあります。他者とのつながりがなければなんだか寂しい、何か虚しいとなってくるでしょう。

 他者とのつながりによる喜びを考えていくと、次の「絶えず祈りなさい」という勧告との繋がりが見えてきます。祈りは、神さまとの会話であり、交わりです。絶えず祈ることは、絶えず神さまとの交わりの内に生きることにつながります。

 この「絶えず」という言葉は、「隙間なく」という意味のギリシャ語がつかわれています。例えばしつこい咳に苦しめられている人を表現する時に使われます。想像してみてください。人が沢山いるので咳をしたくないけど、咳が出そうで仕方ない。そうなるといつも咳のことばかり考えるようになってしまうのではないでしょうか。このいつも意識してしまう状態を表している言葉が、「絶えず、隙間なく」という言葉です。絶えず祈りなさいというのは神さまの臨在を常に意識し、いつも神さまに信頼し、神さまと交わることです。そしてその時、私たちは喜びと感謝にあふれるのです。祈りの大切な要素の一つは、感謝です。私たちは絶えず祈りに生きるとき、どのようなことの中にも神さまの恵みを見出し感謝することができるのです。

 これらの三つの勧告、私たち人間が意識して行おうとしても難しいことです。例えば自分のことでいっぱいいっぱいになり、苦しくて仕方ないときには喜べないし、祈れない、そして感謝もできない。弱さを抱える私たちにはよくある事だと思います。しかしそれでも三つの勧告の言葉を実行するカギをパウロは同時に記しています。

 そのカギは18節の言葉、「キリスト・イエスにあって」です。私たちの力ではいつも喜んでいることはできませんが、イエスさまと共にあるならばできるのです。私たちはイエスさまにあって最もすばらしい恵みと祝福を既にいただいているのですから、この世で遭遇する様々な問題や苦しみは、取るに足りないことなのです。私たちはイエスにあっていつも喜んでいることができるのです。

 いつも喜び、祈り、感謝するなど人の力だけではとてもできません。しかし聖書はそうしなさいと語るのです。これがパウロの願いであり、神さまの御心です。私たちの力だけではなく、ただイエスさまにあってのみ可能なことです。

 イエスさまはいつも共におられます。この与えられた恵みをイエスさまにおいて喜び、祈り、感謝しましょう。

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