マルコによる福音書 9章2節~13節
「イエスの変容」
この聖書の個所は、山上でイエスさまの姿が、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子たちの前で栄光に輝く姿に変わられた個所です。
直前の箇所でペトロはイエスさまに「サタン、引き下がれ」、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と強い言葉で忠告を受けていました。それは、イエスさまが語る受難と死、そして復活の預言を聞かされたことで「そんなことを言わないでください」といさめ始めたことから始まっています。ペトロは自分の思いだけが先走って、その思いがイエスさまの救い主としての本当の姿を理解することを阻む結果になってしまっていたのです。
私たちも対人関係の中で他人に対して様々な期待を持ちます。しかし、相手に対する期待が過剰に大きいものになると、当然にトラブルも多く起こります。私たちがもし、相手を自分の期待を通してだけ見ようとすれば、おそらくその相手の姿を本当に理解することができなくなるでしょう。その結果、自分の周りの人は自分に都合のいいような道具のような存在になってしまうのです。ペトロたちの誤りもまずこのような点にあったと考えることができます。彼らは力強い救い主をイメージしていました。ですのでイエスさまが「十字架にかかって死なれる」と言う話をされると「それは私たちの望んでいることではありません」と拒否し、イエスさまをいさめようとするまでに至ったのです。
この山上でのイエスさまの姿の変貌の出来事に置いてもペトロたちは同じことを繰り返しています。まず彼らの目の前で、イエスさまの姿が栄光に輝く姿に変化していきます。そこにモーセとエリヤという旧約の代表的な二人が登場するのです。
彼らがイエスさまのエルサレムでの最期を話し合っていたと言うことは、旧約がイエスさまの十字架の死を預言していることを示しています。イエスさまの十字架の出来事は神さまの計画に従って行われるものだと私たちに教えているのです。
そのような意味を示す二人の登場を前にしてペトロは仮小屋を三つ建てましょうと提案しています。仮小屋という形でこの素晴らしい光景をいつまでも留めようとしたのです。
ペトロのこの考えは愚かであると言えるかもしれません。しかし私たちもこのペトロと同じように「自分の体験した最高の出来事をいつまでもそこにとどめておきたい」と言う願望を抱くことがないでしょうか。
どうしても失いたくないものをとどめておきたいと私たちは願います。そしてその願望が強ければ強いほど、私たちはそれを失うことを恐れるようになります。例えば財産、名誉、健康などです。しかし、ペトロのこの願いが一瞬のうちに消え去ってしまうように、私たちの理想の形や願望も永遠に変わらないということはないのです。変化するのです。
しかし、イエスさまの言葉は私たちの命はそれらのものによって支えているものではないと教えます。この言葉は私たちへの福音の招きであり、イエスさまの語られた約束です。この言葉を真実なものとするのは私たちの努力ではなく、私たちのために十字架にかかり、復活されたキリストの栄光ある力にある事が分かります。この招きに私たちが従って生きるなら、変化の激しい世の中から私たちは自由にされ、やがてはキリストと同じ栄光ある姿に変えられることを確信することができるのです。このように私たちに神さまから与えられるその素晴らしい祝福をこのイエスさまの山上の変貌の出来事、そして十字架と復活は私たちに教えているのです。

