主日礼拝説教 2026年1月4日

マルコによる福音書7章1~23節
「人から出て来るもの」


 ファリサイ派の人たちにとって手を洗うことは、衛生上の理由というよりも宗教的に汚れた人間ときよい人間を区別するための決まりでした。食事の前は手を洗ってきよめる。市場から戻った時にも、色々な汚れたものに触っているかもしれないから、身体全体をきよめる。大切なことです。
 しかし彼らはなぜ必死に汚れた人間と清い人間を区別するのでしょうか。それは、聖なる神さまを清く正しく礼拝するためでした。そういう真面目な思いから、昔の人たちの言い伝えが生まれていったのです。しかしイエスさまは彼らに、「神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」と言われます。
神さまを敬う言葉を語る、手を洗う、身体をきよめる、汚れたものから遠ざかる。間違ったことは確かにしていません。しかし彼らの心がどこかに行ってしまったのです。それをイエスさまは「受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」と指摘されます。
 イエスさまは十戒にもある「父母を敬え」を例に挙げて語られます。当時この戒めを守るために、「コルバン」という制度を悪用していた人がいたのです。コルバンとは簡単に言うと持ち物を神さまへの献げものとして宣言することで、誰にも使わせなくするものでした。この制度を使ったことにし、両親のために財産を使わず見捨てる人がいたのです。親としても、神さまに献げるからと言われてしまえば諦めるしかないわけです。そうやって、結局は親を見殺しにしているだけなのに、それが宗教的に立派な行為であるかのようにさえ見える、そんなことが行われていたのです。人間の言い伝えや風習を神さまの御心よりも優先した例の一つでした。
 人間の言い伝えや風習を神さまの御心や聖書よりも重要視している。イエスさまのこの批判を、私たちは他人事として聞き流せるでしょうか。私たちにも、自分たちで作り上げた言い伝えによって神さまの言葉をないがしろにしているということはないでしょうか。もしくは同じく自分たちで作り上げた言い伝えを、聖書や神さまの御言葉よりも優先するものにしてしまってはいないでしょうか。他者を攻撃する、排除するものにしてはいないでしょうか。
 ファリサイ派の人たちが大切にしていたのは、手を洗ったか、食べ物が清いかという外面的な問題でした。それを大切にしていれば清い人間になれると、彼らは本気で思っていました。しかし、イエスさまが問題とされたのは、心の清さでした。
 ファリサイ派の人々は聖書を熱心に学び、行動していました。しかしそれは外面的なものに向かいました。そしてイエスさまの弟子たちの外面的な汚れの問題にあれほど拘りながらも、自分の内面にある汚れには注意を払いませんでした。彼らがイエスさまを受け入れなかったのは、妬みという負の感情からであることから目をそらしたからです。
 イエスさまは手を洗うことを否定していません。外面的なものを取り繕うせいで、逆に心が汚くなっていないかと忠告されたのです。これは私たちに向けられた言葉でもあります。様々な言い伝えを必死に守りたいのは、実は自分が中心のルールを守りたい、自分が気持ちよくなりたいという内から出て来る虚しい欲望から始まっているのかもしれません。人間の言い伝えはそれを満足させてくれるかもしれませんが、それは人を汚す人から出て来るものである可能性も十分にあるのです。私たちが本当に大切に守る必要があるのは、人から出て来るものではなく、神さまの御言葉です。

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