主日礼拝説教 2026年1月25日

マルコによる福音書 8章1~10節
「パンの奇跡再び」

 パンと魚が増える奇跡物語が再び語られます。6章の物とは細かいところが違いますが、基本的には同じ流れです。なぜ2回も同じような奇跡物語が記されているのでしょうか。
 イエスさまは今回群衆が空腹であることを「かわいそうだ」と言っています。彼らはイエスさまと共におり、三日間も何も食べていないのです。そこでイエスさまが彼らにパンを食べさせようとしますが、弟子たちはどうやってこんな人里離れた所で十分なパンを入手することができるのだろうかと聞いています。しかしイエスさまはパンの数を弟子たちに確認します。そしてそこにあった7つのパンと少量の魚を、祈りをささげたのちに裂いて弟子たちに配るよう命じるのです。弟子たちの質問はもっともですが、ふと思うわけです。弟子たちは以前男性だけで5000人もの群衆がたった5つのパンと2匹の魚で満腹し、しかも残りが12カゴもあったあの奇跡を忘れてしまったのでしょうか。そんな疑問を持ってしまいます。
 ある聖書学者はこの二つの奇跡物語を理解するとき、一回目はユダヤ人のためのもの、二回目は異邦人のためのものであると解釈しています。確かにギリシア人の女性の娘の癒しの話など、異邦人に焦点を当てる話が続いています。そして弟子たちはイエスさまが起こされる奇跡は基本的に同胞のユダヤ人たちの物であると理解していました。だからこそ、以前男性だけでも5000人もの群衆を満腹させられた奇跡を今回も起こしてくださるという発想が出てこなかったのです。当時のユダヤの文化・宗教の背景を考えると、弟子たちは以前のことを忘れていたのではなく、そもそもそういう考えがなかったのだと考えられます。
 またもっと単純に、重要なことだから二回奇跡が起こされたとも考えられます。一般に同じことを繰り返すということは、大事なことを教えるために行われることです。一回で分からなかったら、もう一回、言ったりやらせたりします。しっかり理解してほしいからです。そして弟子たちの固定観念を崩されようとしたのでしょう。相手がユダヤ人か否か以前に、おそらく弟子たちは奇跡などそう簡単に起こるものではないと考えていたことでしょう。確かに奇跡は簡単に起こらないから奇跡というのですが、イエスさまは奇跡を行われる方です。それも、天文学的確率という意味の奇跡ではなく、神さまのしるしとして奇跡を行われる方です。イエスさまは一度奇跡を行なえば、二度目も同じ奇跡を行なわれることのできる方なのです。では現代においてこの奇跡の三回目は起こるのでしょうか。人間にはできないでしょう。しかし神さまなら、イエスさまなら三度でも四度でも起こせます。
 では人間には何ができるのでしょうか。まず祈る事、すべてを委ねることができます。そして私たちにできる重要なことを聖書は教えてくれています。それは弟子たちも行っていた、イエスさまが裂いて渡してくださった福音というパンや魚を配ることです。増やすことは無理でも、それを人々に配ることはできるのです。イエスさまから与えられた福音というパンを私たちは配るようにと命じられ、聖霊の力を借りながらそれを語り伝えることができるのです。そして私たちはそれを使命として与えられているのです。
 与えられた福音というパンを配ることも、勇気のいることかもしれません。しかしそんなことを考えてしまう私たちをも神さまは器として用いてくださっています。神さまは必要な言葉をすでに与えてくださっています。

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