主日礼拝説教 2025年8月24日

マルコによる福音書 3章1~6節

「癒すイエス」
 安息日にユダヤ教の会堂に片手の萎えた人がいました。新約の時代は、片手が動かないことはその人、もしくはその人の親族の罪の結果であり、神さまの罰であると考えられていましたので、この手の萎えた人は堂々と喜んで会堂に集っていたのではなく、恐らく会堂の隅っこで、目立たないように、身を小さくして集っていたのではないでしょうか。片手が使えないだけでもしんどいのに、周りの人々の自分への眼差しに対する苦しみなど、そのような心の苦しみをも抱えて、会堂にいたことでしょう。そんな手の萎えた人が、今注目の的になっています。それはイエスさまが会堂に入ってこられたからです。そして「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた」とあるように、あくまでこのあとどうなるだろうという興味本位です。彼の苦しみに目を向ける人はいなかったようです。
 イエスさまは、手の萎えた人をあえて人々の真ん中に立たせます。そして、「安息日に律法で許されているのは、善を行なうことか、悪を行なうことか。命を救うことか、殺すことか。」と問うのです。イエスさまを訴えようとしている人たちにとって、律法は字義通り守るか、守らないかが最も重要なことです。しかし、イエスさまがここで問われたのは、律法は安息日に何を求めているのかという根本を問う質問だったのです。
 この質問で律法学者たちは黙ってしまいます。もし善を行なうことと答えてしまえば、安息日に癒しを行なうことを認めることになります。イエスさまは、律法を与えてくださった神さまが、人々に本当に望んでおられることは何かということを重要視されたのです。神さまの恵みに生かされていることを感謝し、神さまの祝福を共に受け、神さまと歩むことを喜ぶことが大切であることが忘れ去られていました。
 しかし、人々はそれを理解しようとしません。沈黙し、イエスさまの問いかけを拒絶するのです。神さまの御心を知ろうとしないのです。そんな人たちを見て、イエスさまは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しまれました。
 このイエスさまの怒りと悲しみは、律法学者たちに対するだけではありません。私たちもこのかたくなな心の持ち主の一人です。自分のことばかり考え、神さまの御心を忘れてしまいます。自分の正しさを通すために、人を裁こうとします。神さまを信頼せず、神さまの愛を無視して、そっぽを向いて、嘆いたり絶望したりします。神さまは、恵みを差し出し、共にいて下さるのに、わたしたちは神さまに敵対したり、神さまを無視したり、拒絶したりしているのです。
 癒しの御業は、単に体が良くなった出来事で終わりません。会堂の片隅に身を寄せ、喜んで神さまの御前に立てなかった者を呼び出して、心から神さまを礼拝し、賛美する者に、新しく変えてくださったという出来事なのです。神さまを心から礼拝する者となる。それこそ、人のまことの癒しであり、かたくなな心ではなく、生きた心を持つこと。神さまによって生かされる、やわらかい心を持つ、ということなのです。イエスさまは子の癒しの奇跡を通して、会堂にいたすべての人たちに神さまの愛と、天の国が近づいた福音を宣べ伝えました。
 イエスさまは真ん中に立ちなさいと私たちを招いてくださいます。そして御業によって、罪を赦され、新しくされ、神さまを喜ぶ、かたくなさから解放された心を与えてくださるのです。だから私たちは罪を赦されたものとして、共に祝福を受け取り、伝えていきましょう。

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