「安息日の主」
マルコによる福音書 2章23~28節
新約の時代、安息日の規定を守ることはとても重要なことでしたが、イエスさまはそれを破られることがあります。いったいなぜでしょうか。
物語は、イエスさまと弟子たちが安息日に麦畑を通って行かれた時、弟子たちが麦の穂を摘んでいる現場をファリサイ派の人たちが発見し、咎めたことから始まります。当時の律法では他人の畑の麦の穂を摘んで食べることは許されていました。これは貧しい人が飢えて苦しむことを防ぐための定めです。しかし、安息日には許されない、何故ならば麦の穂を摘むことは刈入れの仕事をしたことになるとファリサイ派の人たちは非難します。
安息日は、元来はイスラエルの農耕生活における休息日として設けられました。安息日は休んで回復する日であり、命を与えてくださった神さまに感謝するための日なのです。しかし、この規定が次第に「守らなければいけない」規定となります。「休むことができる」規定が、「休まなければいけない」と意味が変わってき始めたのです。イエスさまの時代の律法学者やファリサイ派の人たちはこれを受けて、「安息日には仕事を一切してはいけ ない」と厳格に守ろうとするのです。
それに対してイエスさまは「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言われます。神さまが恵みとして与えられた安息日が安息ではなく、人を束縛する苦痛の日になってしまっているではないかと言うのです。これは当時の人々がびっくりする教えでした。律法を守らせることを自分たちの使命と考えるファリサイ派の人々には、イエスさまの言葉は律法を軽視した、許すことの出来ない言葉でした。
人間の休息のために安息日を設けて下さった、それを人は勝手に細かい規定を作り、煩雑にして、束縛の規則に変えてしまった。それは神さまの御心に反するのではないかとイエスさまは問われたのです。ファリサイ派の人たちも緊急の場合は安息日規定を破ることを認めていました。問題の本質は、安息日に麦を収穫したかどうかだけでなく、安息日がどういう日だと理解しているかにかかっているのです。
ファリサイ派や律法学者はなんと融通の利かない頭の固い人たちなのでしょうと話を進めていきたいところですが、安息日の決まりを含め、律法を一般的な決まり、法律や規則、もっと言えば歴史や伝統などに置き換えてみるとどうでしょうか。私たちも気が付けば彼らと同じことをしていないでしょうか。もちろんそういったものは大切ですし、守ることは重要です。単純に破ることを推奨しているわけではないのです。しかしそれにとらわれ過ぎて、なぜ守るかよりも、ただ字面通り守ることだけを重要視していないでしょうか。
神さまは私たちのそのような弱い性質をご存じであって、その弱ささえも受け止めて下さいます。大切なのは、神さまに対する感謝と信頼を保ち続けることです。イエスさまから目を離さないようにすることです。
安息日は私たちが神さまとの関係を深める大切な恵みの時です。神さまが与えようとしている大いなる祝福を受け取る絶好の時です。神さまは私たち人間のために安息の日を与えてくださいました。全てのものに命を与えてくださった神さまに感謝をし、私たちが憩うことができるようになるためです。だからこそ、「疲れたもの、重荷を負うものはだれでも私のところに来なさい」と呼びかけてくださる安息日の主、イエスさまに私たちはすべてを委ねて、毎日を歩んでいきましょう。
