マルコによる福音書 1章35~45節
「清くなれ」
イエスさまが生きた時代、重い皮膚病を患っていた人は、かなり差別されて生活していました。律法でその病いに犯されている体をあらわにして、自ら「汚れた者です」と叫びながら行動しなければならない、さらに町の外で暮らさなければならないと定められていたからです。どこまでこの規則、律法が厳密に実行されていたかは不明ですが、おそらく家族からも捨てられてしまった人もいたでしょう。重い皮膚病者は病気と社会的差別の双方で苦しめられていたのです。そんな人がイエスさまのところへやってきて「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と頼みます。イエスさまのところに来たということは、「近寄ってはいけない」という境界線を超えた事を意味します。彼は命がけでイエスさまに近づいて来たのです。彼はイエスさまが町々をめぐって宣教され、病の人々をいやされるのを目撃し、この方なら私の病気も治して下さるに違いないと思い、イエスさまのところに来たのでしょう。イエスさまは彼を深く憐れみ、手を伸ばして清くなれと命じて癒されました。そして彼は癒されます。
さて、この人の病気が癒されたのは素晴らしいことですが、イエスさまは彼にこのことを決して誰にも話さないように注意しています。
どうしてこんな命令をしたのでしょうか。確かにこんなに喜ばしい出来事がこの人に起こったのです。あらかじめ言うなと言わない限り、あっという間に悪意なく人に話すことでしょう。「イエスさまという人は本当に神の奇跡を行うかただ。自分は重い皮膚病で苦しんでいたが、あの人に出会い、触れて頂いたことですべて清くなり、祭司すらも清いと言ってくれるようになったんだ」と。しかし言うなと言われても言いたくなります。むしろ言うなと言われる方が言いたくなるかもしれません。結局この重い皮膚病を患っていた人はイエスさまの注意を破って、言い広め始めてしまいました。すぐに言い広め始めたということは祭司のところへ行くことはもはや無かったのではないかとも考えさせられます。この出来事は、この人が社会的に受け入れられるかどうかよりも、まず自分自身を受け入れたというあかしであったと言えますし、同時にイエスさまに対する信仰告白であったとも言えるのではないでしょうか。
しかしイエスさまはそれを望みません。イエスさまは自分が病気を癒す魔術師のようなものとして理解され、本来の目的、神さまの福音を宣べ伝えることができなくなってしまう危険に気づいていたからです。癒しも大事だがもっと大事なメッセージをイエスさまは伝えられたのです。それにもかかわらず、人々はなお病の癒しのみを求めてイエスさまの下に来ます。
癒しはとても重要です。しかしそれがメインではありません。教会もあらゆる病気を癒す魔術を執り行う場所ではなく、神さまの御言葉を、福音を共に聴き、共に祈る場所です。もちろん誰かが苦しんでいるとき、癒しを祈りますし、神さまが癒しを与えてくださるときもあります。しかし私たちはそれだけを期待して教会に来るのではありません。癒されたいから、感動したいから、自分の願いをかなえたいから神さまを信じているのではありません。大切なのは神さまがイエスさまの十字架によって私たちの罪を赦してくださったこと、それほどまで私たちを愛してくださっていることを知り、改めて感謝をもって歩むことができるようにすることです。だからこそ、私たちはすでに赦されたものとして、この神さまの愛を宣べ伝え続けていきましょう。

