主日礼拝説教 2025年6月15日

マルコによる福音書 1章1~11節
「イエスの洗礼」
 今日の聖書の個所では、洗礼者ヨハネが「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」を人々に宣べ伝えていたと書いてありました。洗礼者ヨハネがこのような活動を始めることは、旧約イザヤ書によって預言されていたことでした。洗礼者ヨハネが突然現れて、勝手に活動を開始したのではなく、旧約からつながる神さまのご計画の流れの一つとして彼が用いられたのです。
 そしてイエスさまが洗礼者ヨハネより洗礼を受けるのですが、神さまの独り子であるイエスさまにどうして洗礼など必要なのでしょうか。罪ある人間が洗礼を必要とする理由は私たちもよく知っていますが、罪とは最も遠い存在である神さまの独り子であるイエスさまになぜ洗礼が必要なのでしょうか。それは一言でいうならば、神さまがすべての人を罪から解放するためにイエスさまの洗礼が必要だったからです。
聖書でいう罪は、的外れであること、人間が神さまから離れてしまっていることを指します。そして罪の赦しとは、神さまとの結びつきを回復し、人間を罪の状態から解放された状態 にすることを指します。しかし人間には、自身に宿る罪と不従順を完全に取り除くことは不可能です。そこで神さまは、御自分の独り子であるイエスさまをこの世に送り、イエスさまに人間の全ての罪と不従順からくる罰を全て負わせて死なせ、その身代わりの死によってすべての人間を赦すことにされました。そのために神さまの御子であるイエスさまは、ご自身は罪の赦しを必要とされないのにもかかわらず、罪の赦しが必要な人間と同じ洗礼を受けられたのです。洗礼者ヨハネから洗礼を受けることによって、洗礼を必要とする人間たちと同じところに身を置いてくださったのです。フィリピの信徒の手紙には、「キリストは神の身分でありがなら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と書いてあります。人間と同列に置かれ、人間が被る死の苦しみを自分自身も被ることができるようになる。それで人間の不従順と罪から来る罰をまさに罰として引き受けることができるようになる、ということです。
 もしイエスさまがこうした立場を持たされずに、単に神聖な立場のままにいたら、死も苦しみもイエスさまに近寄ることはできなかったでしょう。イエスさまから罪の赦しを必要としている私たちの所に来てくださり、私たち一人一人と結びついてくださったのです。私たちが2000年の時の違いを超えて洗礼を受け、イエスさまに結び付くことができるのは、イエスさまがここで洗礼を受けてくださったからなのです。
神さまは罪を認められません。そこには罰が必要です。しかし人間が背負いきれない罪や罰で押しつぶされることも望まれておられません。このジレンマを解決するために、天におられる神さまが人の姿をとられ、人の子イエスキリストとして洗礼を受けられたのです。神さまの人間に対する一方的な大きな愛が、自己犠牲の愛であると言われるのはこのためでもあります。
 私たちは洗礼を受け、イエスさまに連なる兄弟姉妹となりました。イエスさまと共に神の御国を継ぐ跡継ぎにされているのです。このことを感謝して、これからの生活を歩んでいきましょう。そして、この大きな喜びを多くの人に宣べ伝えていきましょう。

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