主日礼拝説教 2025年6月1日

テサロニケの信徒への手紙二 3章6~18節
「敵と見なさない」


 パウロは終末の時を心配するがあまり今をないがしろにしている信徒たちについて手紙の最後まで記しています。終末の時を意識することはとても大事ですし、パウロ自身もすぐに終末の時が来るように考えていたことはその書き方からも分かります。
 しかしテサロニケの信徒たちの中には、怠惰な生活をしている者がいました。第一の手紙の時点でも落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように語っていました。そして、怠けている者たちを戒めるように願っていたのです。しかし、それでも怠惰な生活をしている者がいたのです。第二の手紙では最初からその件について触れ、今日の個所ではややきついのではないだろうかと思えるような言葉で戒めています。6節では、「怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟たちを避けなさい」とまで言っています。しかし避けなさいと言いながらも、まだ怠惰な生活をしている人たちのことを兄弟たちと呼んでいます。
 そしてパウロは、テサロニケにいた時、自分たちがどのような生活を送っていたかを思い起こさせるのです。パウロたちはテサロニケに滞在していたとき、誰にも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。援助を受ける権利があったのにもかかわらず、パウロたちは自主的にそうしたのです。それは、テサロニケの信徒たちに、模範を示すためであったのです。その姿を思い起こさせ、「働きたくない者は、食べてはならない」と再度命じたのです。もちろんパウロたちは病気や障害などで働きたくても働けない人のことを言っているのではありません。「働けるにもかかわらず、怠け心から働こうとしない者は、食べてはならない」と言っているのです。
 ところで11節に興味深いことが書かれています。怠惰な生活をしている兄弟姉妹は、働かないのに加えて、余計なことをしている者もいたのです。余計なことが何なのかは、具体的に書かれておりませんので想像になりますが、文脈から考えると終末の時について色々と触れ回っていたのでしょう。彼らは主の日が近いからもうこの世の生活は関係ないと慌てふためいて落ち着かない怠惰な生活をしていたからです。しかし主の日をそんな形で迎えることについて彼らはどう思っていたのでしょうか。その日その時を私たちは知らないのだから目を覚ましていなさいという言葉を忘れたのでしょうか。
主の日が来るということを宣べ伝えることは悪いことではなく、必要なことです。しかしそれが行きすぎたり、自分の思いを優先してしまっていたりしたことが問題なのです。これは現代を生きる私たちにも十分起こる可能性がある事です。例えば教会のためにと言いながら、自分の理想を押し付ける人がいたとします。それは行き過ぎると教会をその人の自己実現欲求を満たす場所へと変えてしまうことになり、熱心に余計なことをしていることにもなります。怠惰な生活をしていると指摘されている人たちも、自分たちは神さまの教えを熱心に守っていると考えていたことでしょう。しかしそれは、教会を混乱させ、ただ怠惰な生活を送ることになったです。
 しかしそれでもパウロは、怠惰な生活を送る兄弟姉妹を敵とは見なさず、兄弟として警告するように記しました。切り捨ててしまうことはしないのです。
 神さまの目から見れば不完全な私たちですが、共に神さまから愛され赦されたものとして、これからも互いに祈りあい、神さまの御心を強く宣べ伝えていきましょう。

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