主日礼拝説教 2025年4月13日

テサロニケの信徒への手紙一5章1~11節

「主の日は来る」

 テサロニケの信徒たちは、先に眠りについた人たちが再臨のイエスさまに会うことができないのではと不安を抱いていました。それに対してパウロは、イエスさまを信じて眠りについた者たちは、復活して、生き残っている者たちと一緒にイエスさまをお迎えすることができると語りました。

 今日の個所ではさらに再臨のイエスさまが来られる時、主の日について語っています。旧約時代から主の日は、神さまによる裁きの日と理解されていました。イスラエルの民にとって主の日は、神さまが自分たちを迫害してくる異邦の民を滅ぼし、自分たちを救ってくださる希望の日でした。さらに預言者たちは、神さまの掟に背くイスラエルにとっても、主の日は破滅の日であると警告します。またダニエルは、主の日は、天の雲に乗ってやって来る人の子によってもたらされると預言しました。そしてイエスさまは、自分こそその人の子であると宣言されました。だからキリスト教会で主の日は、再臨のイエスさまが、全世界、全歴史を裁くお方としてこの地上に来られる日のことを指しています。その日、イエスさまを信じる者は、罪の支配から完全に解き放たれ、栄光ある者へと変えられ、いつまでも主と共にいるという完全な祝福に永遠にあずかる者とされるとパウロも語るのです。これはとても喜ばしい知らせですが、単純な疑問もわきます。主の日はいつ来るのでしょうか。

 パウロは、「その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。」と言います。イエスさまも天に昇られる前に「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」と語っています。

 イエスさまは、主の日がいつ来るかについて、思いがけないときに、突然やって来ると教えられました。主の日は、何の前触れもなく来るのです。そして主の日はイエスさまを信じない者にとって、この世を突然襲う破滅の日です。しかしイエスさまを信じる者にとって、主の日は再臨のイエスさま、マラキ書の言葉を借りると義の太陽を迎える喜びの日となるのです。

 義の太陽、イエスさまを救い主と信じ、告白している私たちは、光の子として歩むよう聖書は語ります。どんなに闇に行こうとしても、究極の光であるイエスさまが共に歩んでくださっている限り、またそのことを信じている限り、闇は照らされ光となるからです。

 さらに目を覚まして主の日に備えなさいと言われます。再臨のイエスさまがいつ来られてもいいように、その備えをして歩むこと、それが目を覚ましていることなのです。天から来られるお方が、破滅をもたらす盗人ではなく、私たちの救いを完成してくださる主人であることを知っているがゆえに、いつも目を覚まして待ち続けるのです。イエスさまも何度も目を覚ましていなさいと弟子たちに語り掛けられました。

 主の日、裁きの時が来るから備えなさいと聞くと、私たちは脅されているように感じてしまうこともあります。しかし神さまは、私たちを罪に対する怒りを受ける者とはされておられません。むしろイエスさまの十字架によってすべての罪を赦され、救いにあずかる者と定めてくださいました。神さまの御前に罪人である私たちですが、すでにイエスさまの十字架と復活によって救いにあずかる者とされたのです。

 他でもない私たちのためにイエスさまが十字架にかけられたことを覚え、信仰を新たにして必ず来る主の日を、目を覚まして待ち望みましょう。

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