主日礼拝説教 2025年2月9日

テサロニケの信徒への手紙一 2章1~12節

「福音を伝える」

 使徒言行録17章によるとパウロがテサロニケで伝道を行ったとき、それをよく思わない一部のユダヤ人が暴動を起こしたことが書かれています。そしておそらくその人らが、パウロたちがテサロニケを去った後に、パウロたちは自分たちが評価されるために教えを広めているような発言をしていました。しかしパウロは「わたしがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。」と語っています。

 パウロたちはテサロニケに入る前に、フィリピで苦しめられ、辱められました。しかしその後にテサロニケで伝道をするのです。もし私たちが同じ目にあえばどんな思いをするでしょう。イエスさまの名は口にしないでおこうと思っても不思議ではありません。しかしパウロは、テサロニケでも大胆に神さまの福音を語ったのです。これは驚くべきことです。なぜ、そんなことができたのでしょうか。パウロはその理由を「わたしたちの神に勇気づけられ」と記しています。パウロは、神さまに勇気づけられて、大胆に神さまの福音を語ることができたのです。大胆に語るとは、遠慮することなく自由に語ることです。人の顔色をうかがうと、大胆に語ることはできません。パウロが宣べ伝えていたのは、他でもない神さまの福音です。それは誰にも遠慮することなく、自由に語られるべき言葉であるのです。私たちが宣べ伝えているのも、神さまの福音です。私たちも神さまに勇気づけられ、大胆になることができるのです。これこそパウロがテサロニケに行ったことが無駄ではなかったと、断言することのできる理由です。

 もしパウロたちが宣べ伝えているものが、神さまの福音ではなく、人にへつらう言葉であったならば、そこにどれほど沢山の人が集まろうとそれは無駄なことなのです。けれども、パウロたちが実際そうしたように、神さまの福音を語り、たとえ少しの人にしか受け入れられなくてもそれは無駄なことではないのです。

 私たちが神さまから与えられているのは、超人的な力ではありません。神さまの福音をゆだねられているのです。「ゆだねる」行為の根本にあるものは信頼です。パウロは神さまからの信頼に応えるために、どのようなときも大胆に神さまの福音を宣べ伝えたのです。パウロは、「人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。」と語りました。ここには、福音を告げ知らせる究極的な動機で記されています。福音宣教の正しい動機は、人に喜ばれるためではなく、私たちを恵みによって認めてくださった神さまに喜んでいただくためなのです。なぜなら、人に喜ばれることを第一の動機とするなら、神さまの福音は歪められ、もはや神さまの福音とは呼べないものとなってしまいます。人に喜ばれることを第一とするなら、裁きの日が来ることなど誰も話しませんし、自分を罪人と告白もしません。しかし、神さまに喜んでいただくことを第一とするとき、私たちは神さまの福音を曲げることなく、大胆に語ることができるのです。ここにこそ人の救いの道があるのです。

 神さまは私たち一人一人が救われることを喜んでくださる方です。神さまの喜びが、人を排除するものではなくて、むしろ人を御自分との交わりへと迎え入れるところにあることが分かります。ここに集う私たちを神さまがどれほど喜んでくださっているかが分かるのです。神さまの喜びがいよいよ満ちあふれますように、私たちもゆだねられた神さまの福音を宣べ伝えてゆきたいと願います。

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