エレミヤ書36章1~10節
「主の言葉」
私たち人間は昔から文字を書き、記録を取って保存するという作業をしています。かつて文字を書いたり読んだりすることは、普通の人々のできることではなく、特別の技能を習得した専門家の仕事でありました。また、書く媒体も石板やパピルス、羊皮紙など貴重なもので、自由に気楽に使えるものでもありませんでした。聖書なども書き写されてはいましたが、神殿や会堂にある巻物を誰かが読み、それを聞くというスタイルが基本でした。
エレミヤは神さまから、神さまの言葉を巻物に書くよう命じられました。実際に書くのは書記のバルクです。彼らはバビロニア帝国が中東地域の覇権を確立させたヨヤキムの第4年から約20数年にわたって語られた神さまの御言葉を書き記していきます。この作業はとても大変な作業だったことでしょう。数週間、あるいは数か月にも及ぶ大仕事ではなかったかと思われます。特に重要と思われる部分は、二人で何度も確認しながら書き記したはずです。自分で書くだけでも大変なのに、これが口述筆記によって行われるのです。しかしこれによってイスラエルの民たちが罪を悔い改め、神さまの方向を再び向くならば、神さまがそれを望まれておられるならばと、二人は必死だったことでしょう。
そして完成した巻物をバルクが神殿で読みます。エレミヤはその時、神殿に入ることを禁じられていました。理由は聖書にはっきり書かれていませんが、おそらく当時の宗教的指導者たちが、エレミヤが語る言葉をよく思わなかったからでしょう。エレミヤたちは、当時のイスラエルの民たちが目をそらし、その事実を否定したかったことをひたすら語ります。立ち帰りなさい、悔い改めなさい、そうでなければ滅びてしまうという裁きのメッセージは民衆を混乱させてしまう可能性があります。しかしエレミヤは、「主の神殿、主の神殿、主の神殿というな」、「平和がないのに、『平和、平和』というな」と言って、祭司たちと厳しく対峙します。
さて、バルクが読んだエレミヤの、神さまの言葉が書かれている巻物を聞いた役人たちは、書かれていることの重大性を認識し、王に報告すべきと意見を一致させます。そしてバルクとエレミヤの身に王の迫害の手が及ぶことを予想し、身を隠すよう助言します。そして巻物の言葉は王のもとで読まれますが、王はその巻物をナイフで切り裂き、暖炉の火にくべて燃やしてしまいました。エレミヤの言葉をなかったことにしたのです。同時に自らが神さまの言葉を拒む者であることを明らかにしました。しかし神さまが新たに言葉を書き加えられ、巻物は新しく書かれることになります。
神さまの言葉は私たちの耳に心地よく、聞いていて気分がよくなったり感動したりするものだけではありません。心の闇の部分をえぐったり、自分の罪を見せつけたりする言葉も、聖書にはあります。そんな言葉を並べられたら、神さまの言葉、聖書の言葉をないものとしてしまいたくなります。そういう意味では王がとった行動も何もおかしくありません。もちろん聖書も巻物も物ですので、片づけて読まないようにしたり、燃やしたり、捨てたりすることは可能です。しかし、そんなことをして、物質的な聖書を破壊しても変わらないことがあります。それは、神さまの言葉が私たちに今も語り掛けられているということです。
私たちの心を揺さぶる神さまの言葉は今なお私たちに様々な形で聞こえてきます。その言葉は厳しく聞こえることもありますが、神さまの愛の言葉であることは間違いありません。私たちも聖書に書かれた希望を信じ、歩みましょう。
