主日礼拝説教 2025年12月28日

マルコによる福音書 6章45~56節
「安心しなさい」
 イエスさまは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、向こう岸のベトサイダに向かうよう指示されました。舟は当時の欠かせない移動手段ですが、それだけではなく、湖畔の群衆にイエスさまが教えるために腰を下ろす場所としても使用されています。更に、弟子たちがイエスさまのしるしを、奇跡を体験する舞台としても登場しています。そして舟はこの世を渡る教会を表す象徴としても用いられています。私たちも信仰生活や伝道という航海の旅に導かれているのです。そういった意味でイエスさまは弟子たちがその舟に乗ることを強いたのだろうと考えられます。一方でイエスさまはパンと魚で満腹した群衆を解散させられ、山へ祈りに行かれました。
 夕方になっても弟子たちを乗せた舟はまだ湖の真ん中にいました。逆風で漕ぎ悩んでいたと書かれています。舟で漕ぎだして悩むことは、マルコによる福音書だけでも2回目です。しかし前回と明らかに違う部分があります。それは、今回はイエスさまが舟にいないのです。前回は寝てはいましたが、イエスさまが一緒にいました。今回はいません。彼らはなんとか自分た ちで向こう岸に辿り着こうと、必死になって漕いでいます。
 イエスさまに従って舟に乗った時、弟子たちは困難や、逆風や、嵐に遭います。先ほど舟は教会の象徴であると言いましたが、弟子たちが直面している困難は私たちの信仰の歩みであり、世にある教会の歩みであるともいえるのです。私たちは、イエスさまのものだからこそ、イエスさまに逆らう者や、反抗する者たちに苦しめられ、悩まされることがあります。また、信仰を持っているからこそ、思い悩み、困難を覚えることがあるのです。
 ところで同じく夜が明けるころ、弟子たちの様子をイエスさまは陸からご覧になられ、弟子たちのもとへ湖の上を歩いて向かい、そのそばを通り過ぎようとします。弟子たちはイエスさまの姿を見て恐怖を抱きました。もちろん夜明けの薄暗い湖の真ん中を人が歩いていたら驚くでしょう。しかしなぜ驚くだけでなく、おびえたのでしょうか。
 おそらく弟子たちは、イエスさまはここにはいないと思い込んでいたのです。こんなところにイエスさまがおられるはずがないという常識から、イエスさまの、神さまの力の存在を忘れ、自分たちの力だけに頼っていたからでしょう。もし彼らが、「イエスさま助けて下さい」と願っていればどうだったでしょうか。その求めに応えてイエスさまが湖の上を歩いて来られたなら、同じ驚きであっても、「驚くべき御業で助けに来て下さった」と喜んだのではないでしょうか。
 弟子たちは自分たちの力で必死になったあまり、目を塞いでしまっていたのです。イエスさまがその姿を見せてもおびえることしかできなかったのです。イエスさまは、そんな弟子たちに、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と語りかけられました。
 私たちも時には逆風が吹きつける現実を、教会や信仰という舟に乗って歩んでいます。時に嵐にあい、逆風に見舞われます。そしてイエスさまが自分のために来てくださり、その姿を見せてくださっても、幽霊だとおびえて受け入れることができません。イエスさまは私たちといつも共にいてくださる。神さまは必ず私たちに大いなる恵みを与えてくださっている。それを知りながらも忘れてしまうのです。それでもイエスさまは、私たちのところにどんな形でも来て下さいます。通り過ぎず、舟に乗り込んでくださるのです。そんなイエスさまの愛と恵みを覚え、歩みを進めましょう。

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました