主日礼拝説教 2025年12月14日

イザヤ書40章1~11節
「良い知らせ」

 イザヤ書を読む時に外せない出来事として、バビロン捕囚があります。何度か触れていますので簡単に説明すると、イスラエルの民たちにとってバビロン捕囚は、他人に自分たちの存在が全否定されるような経験です。自分の生きる拠り所が、すべて根こそぎ奪われるような経験です。
 そんなイスラエルの民たちに、神さまは解放が近いことを告げ、国に帰還することを強く促しています。しかし、バビロン捕囚の間に世代が変わっており、ユダヤでの生活を知らない人が大半です。ですのでバビロンを出て廃墟となっているエルサレムへ向かうこと自体に葛藤があったはずです。そこを再建することは、荒野に道を通すような努力が必要です。バビロンにいればいいと思う人々にとっては、帰りなさいという呼びかけは、ハードルの高い呼びかけだったことでしょう。
 放蕩息子のたとえ話に出て来る息子も、食べるものがなくなったときに我に帰って、父親のところに帰ろうと思いました。しかし財産をもらって家を飛び出て放蕩の限りを尽くしてしまったので、帰ることを悩んでいました。帰る場所があり、そこに慰めの神さまがいると知っていても、なかなか難しいときがあるのです。そんな状態のイスラエルの民に向かって、神さまは「身を起こして、生きよ」と語るのです。
 「慰め」はヘブライ語では神さまからの生きる勇気や励ましを意味する言葉が使われています。ボロボロで、変える気力すら湧かないイスラエルの民たちに、救いの時が来た、帰る時が来たのだと神さまはイザヤを通して呼び掛けます。こうした神さまの慰めを待ち望んでいた人物にシメオンがいます。シメオンはルカによる福音書2章によると、「イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた」と紹介されています。彼が幼子のイエスさまを見て腕に抱いたとき、「わたしはこの目であなたの救いを見た」と言いました。その救いは「万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」と。シメオンはイエスさまに真の慰めを、神さまの栄光を見ました。イエスさまにおいて、イザヤの預言が成就されたのです。
 そしてイザヤは「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」と語ります。荒れ地に広い道を通すためには、道なき道を道にする必要があります。そしてそんな道が神さまのもとへと導く道ならば、そこを喜んで歩くように言います。生きているうえで、まっすぐ舗装された安定した道だけを歩むわけではありません。けもの道を歩くこともあります。しかしどんな道を歩く時でも神さまは共にいてくださいます。
 イスラエルの民がバビロン捕囚を経験し、疲れきって力を失った時に、預言者イザヤの言葉が、神さまの言葉が迫ってきました。私たちも同じなのかもしれません。挫折し、傲慢さが打ち砕かれ、自らの力ではどうしようもないということがはっきりとした時、自分はひょっとしてけもの道を歩いているのではないだろうかと不安に思ったときに初めて、私たちに神さまの言葉が、神さまからの呼びかけが聞こえてくるのかもしれません。これこそ私たちに与えられている喜びであり、慰めです。
 次週はクリスマス礼拝です。預言者たちが告げた慰めが訪れた時です。教会はこの喜びを告げ知らせるように、神さまから呼びかけられています。救い主が誕生したという大きなクリスマスの喜びを、多くの人と共に分かち合いましょう。

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